伝説の逃亡奴隷(マルーン)王国『パルマーレス』の歴史について

ブラジル北東部に位置するマセイオという大都市には、「ズンビ・ドス・パルマーレス空港」という名の空港があります。

(アラゴア州最大の都市マセイオ)

(ズンビ・ドス・パウマーレス国際空港)

ズンビ・ドス・パルマーレスとは、かつてこの地で繁栄した奴隷王国「パルマーレス」を率いた最後のリーダーの名前です。

奴隷王国とは、奴隷だけでつくった国のことです。
自由を求めて自らの国をつくりあげた王様ズンビ。
彼の命日11月20日は、「黒人意識の日(day of Afro-Brazilian consciousness)」として祝日に定められています。

今回は、そんなズンビ・ドス・パルマーレスがいた「奴隷王国パルマーレスについて見ていきたいと思います。

(ズンビ・ドス・パルマーレスの銅像)

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奴隷貿易により大量のアフリカ人がアメリカ大陸へ

奴隷王国について説明するために、まずは大航海時代の奴隷貿易の歴史についてみていきましょう。

1492年コロンブスの新大陸発見を契機に、ヨーロッパ人は「新世界」アメリカ大陸を支配していきます。

この地を支配したヨーロッパ人は、砂糖の生産に乗り出します。
ヨーロッパで紅茶が流行し、砂糖の価格が急騰していたためです。

大規模なサトウキビ農園を維持するためには、大量の労働者が必要になる。
そこで、ヨーロッパ人はアフリカから奴隷を船で輸送し、彼らを死ぬまで農園で働かせたのです。

1493 入門世界史』によると、1500年から1840年の約300年の間に、1,170万人のアフリカ人がアメリカ大陸へ移動させられたそうです。
同時期にアメリカ大陸に移動したヨーロッパ人は340万人。
いかに多くのアフリカ人が奴隷貿易で連行させられたのかが分かります。

(奴隷船内の様子)

アフリカからわざわざ奴隷をアメリカ大陸へ連れてきた理由

なぜヨーロッパ人は、遠くのアフリカから言葉も通じない奴隷をわざわざ連れてきたのでしょうか?
アメリカ大陸にいる原住民を利用すればよかったんじゃない?

理由は主に2つあります。

スペイン王国のインディオ奴隷化禁止宣言

アメリカ大陸を次々に征服していくスペイン王国。
彼らの征服の大義名分は、「インディオをキリスト教へ改宗すること」。
しかし、実際はサトウキビの栽培のために必要な労働力として先住民インディオを狩り、奴隷として働かせていました。

その状況にスペイン国内では奴隷反対の声が大きくなります。
特に敬虔なカトリック教徒であった当時の女王イザベルは、奴隷の状況に心を痛めました。
遂に国は、奴隷売買禁止を命じる法律を制定します。
この法律制定以降も奴隷売買は後を絶ちませんでしたが、原住民であるインディオを奴隷として働かせるのは実質難しくなりました。

アフリカ人はマラリアに耐性を持っていた

コロンブスが到着するまで、アメリカ大陸にはマラリアが存在しませんでした。
コロンブス一行の一人がマラリアに感染しており、マラリア原虫がアメリカ大陸に持ち込まれたと言われています。
蚊が大量発生しているアメリカ大陸では、マラリアが大流行。
免疫を持っていなかった原住民はなすすべなくマラリアにかかり、多くの人が命を落としました。

そんな中、西アフリカと中央アフリカに住むアフリカ人は、生まれつきマラリアの免疫を保有していることが分かりました。
労働力不足に悩んでいたヨーロッパ人はそんな免疫を持ったアフリカ人に目を付けました。


以上の2つの理由から、アフリカ人は奴隷としてアメリカ大陸に連れていかれたのでした。

(奴隷船で連れていかれるアフリカ人)

自由を求め、奴隷たちが逃亡する

では、アメリカ大陸に連れてこられたアフリカ人は、大人しく奴隷として働いていたのでしょうか。
大量の奴隷が自由を求めて農場から逃げ出したそうです。
逃亡した奴隷は、アマゾンの森林に逃がれ、各地で共同体を形成していきます。
この逃亡奴隷を「マルーン」、逃亡奴隷による共同体を現地の言葉で「ギロンボ」と言います。

その地を支配するヨーロッパ人からしたらギロンボは厄介な存在。
ギロンボの壊滅に動きます。
支配者ヨーロッパ人 対 逃亡奴隷ギロンボ の戦いが始まったのです。

そんなギロンボの中で最も激しく抵抗したと語り継がれるのが、逃亡奴隷王国「パルマーレス」です。

このパルマーレスという王国の歴史について、3人の王を中心にご紹介します。

逃亡奴隷王国パルマーレスの誕生~女王アクア・ルツネ

アフリカから奴隷として連れてこられた中には、戦争捕虜が多くいました。
その一人がパルマーレスを建設した女王「アクア・ルツネ」でした。

(彼女を紹介する映像↑)

アクア・ルツネはコンゴの王様の娘で、将軍でもあったといわれています。
そんな彼女は戦争捕虜として捕まり、奴隷としてアメリカ大陸に売り飛ばされてしまいました。

ブラジルの最東端で降ろされたアクアルツネは、その地で逃亡奴隷の共同体の存在を耳にします
その話を聞いた彼女は数か月後、逃亡計画を立て、数十人の部下を引き連れ内陸部へ逃亡しました。

もともとアフリカの王族の一族として育ったアクア・ルツネは、アフリカ部族の伝統や文化を熟知しています。すぐに複数の共同体をまとめあげ、一つの大きな国を形成しました。
その名前が「パルマーレス」です。

(現在のパルマーレスの土地)

逃亡奴隷(マルーン)だけでなく、先住民やヨーロッパ人逃亡者も受け入れて発達していったパルマーレス。
伝説によれば、首都マカコには噴水が湧き出し、教会や会議場、数百の家が並んでいたそうです。
全盛期にはなんと、2万6,000平方㎞ 以上の土地を占有していたそうです。
四国の面積が約1万8,000平方㎞ なので、四国以上の大きさです。

2代目ガンガ・ズンバ~ポルトガルとの戦い~

巨大な王国に発達したパルマーレス。
1650年代にはアクア・ルツネの息子「ガンガ・ズンバ」が王位につきます。

(ガンガ・ズンバがいた時期に描かれた絵画)

ガンガ・ズンバを訪れたヨーロッパ人は、彼の住まいを「宮殿」と表現する程、豪華な住まいに住んでいたようです。
また、彼は様々な人種を受け入れます。
先住民インディオや、社会から逃亡してきたヨーロッパ人やユダヤ人、魔女として迫害された女性、脱走犯などなど、多種多様な人種を受け入れていきました。

国が大きくなればなるほど、敵対する側からは狙われます。
ブラジルを植民地化していたのはポルトガル。
各地で起こる原住民や奴隷の反乱に手を焼いていたポルトガルは、「いずれパルマーレスも抵抗してくるのでは?」 と恐れました。
恐れたポルトガルはパルマーレス滅亡を企みます。

対する国王ガンガ・ズンバも軍隊を組織し、周囲にはトラップを張り巡らし、ポルトガルの攻撃に備えます。

遂に、ポルトガルはパルマーレスに進撃します。
パルマ-レスは必死の抵抗を繰り返し、ポルトガルからの攻撃を絶えしのぎました。

1643年から1677年にかけて、ポルトガルがパルマーレスに攻め込んだのは20回以上と言われています。
それでもなお、パルマ-レスは落ちませんでした。

しかし、パルマーレスも長期の戦いにより疲弊していきます。
スキを突かれたパルマ-レスは、王ガンガ・ズンバの家族がポルトガルに拉致されてしまいます。
自分の家族を人質にされてしまった王は遂に戦いをあきらめ、ポルトガルと和平協定を結びました。(1678年)

これにてポルトガルとパルマーレスの闘いは終結した。
そう誰もが思った矢先、和平協定を受け入れず、革命を起こした者がいました。

それが、冒頭で紹介したズンビした。

闘い続けたズンビ~パルマーレスの最後~

王ガンガ・ズンバの甥で、パルマーレスの軍司令官であったズンビ

彼は、王ガンガ・ズンバが締結した和平協定に強く反発します。
「戦死者への裏切り行為だ!」
憤怒した彼は、なんと叔父である王ガンガ・ズンバを毒殺!

王位を奪って、和平協定を破棄してしまったのです
再びポルトガルとの戦争に乗り出したのです。

対するポルトガルも強硬策に打って出ます。
ジョルジ・ヴェーリョという奥地探検者(バンデイランテ)に協力を仰ぎます。

(奴隷狩り名人ジョルジ・ヴェーリョ)

奥地探検者(バンデイランテ)とは、アマゾン奥地で、原住民インディオを捕らえ、お宝を探索する私設遠征隊。
そんな遠征隊の中で、奴隷狩りの名人として成果を残していたジョルジ・ヴェーリョにポルトガルはパルマーレス壊滅を命じます。

ジャングルでの戦いに熟知したヴェーリョのもと、ポルトガル軍は戦いを優位に進めます。
難なく防壁まで達したポルトガル軍は一気に防壁を壊し、パルマ-レス国内へなだれ込みます。
パルマーレスはその日の内に数百人が殺害されてしまいました。
生き残った国民も散り散りになって逃げるしかありません。
遂に奴隷王国パルマーレスは壊滅したのでした。

王ズンビは、そんな混乱の中も何とか逃げ出します。
彼はその後1年に渡り、ポルトガルとの戦いを続けました。

しかし、最後は側近の一人に居場所を通報され、1695年11月20日、ついにポルトガル軍に殺害されてしまいます。

総大将を討ち取ったポルトガルは彼の首を街中に飾り、歌い踊りの宴会を催したそうです。

11月20日はズンビの日

最後までアフリカ人の国を樹立しようと闘い続けたズンビ。
彼の命日である11月20日は「黒人意識の日(day of Afro-Brazilian consciousness)」として、ナショナルホリデーに制定されました。(2011年)
彼のストーリーは、ブラジルの伝統文化カポエイラの歌に取り入れられ、現代まで語り継がれているそうです。参考

(格闘技と歌とダンスを掛け合わせたブラジルの伝統文化「カポエイラ」)

ブラジルの奴隷廃止は1888年

ブラジルが奴隷制廃止をしたのは、1888年。
アメリカ大陸では、キューバに並び最も遅く奴隷制を廃止した国でした。
植民地時代から奴隷制廃止までの300年の間にブラジルに連行された黒人奴隷の数は、350万人から1,000万人に上ると推測されています。

1888年というと、およそ130年前です。
そう考えるとつい最近まで奴隷制度が存在していたのだなと驚きます。

戦い続けたズンビをブラジル人が英雄視している状況をみると、ブラジル人にはまだまだ怒りの日が燃え続けているのかなと思います。

今回奴隷制度について学ぶことでと、改めて人間の欲深さと野蛮性にゾッとしました。


参考文献

コロンブスの発見によりグローバル世界が形成されたと論ずるアメリカのベストセラー『1493』。原作はとっても分厚いため、コンパクトにまとめた本がこちら。
読みやすく、知的好奇心が揺さぶられる本でした。

・wikipedia:Zumbi
・wikipedia:Domingos Jorge Velho