第五福竜丸事件のキホン~『ゴジラ』を生み出した事件~

前回の記事 ゴジラのキホン~『シン・ゴジラ』を観て~の続きです。

公開直後から社会現象となっている『シン・ゴジラ』。

市川実日子さんが演じられた対策チームの環境省職員尾頭ヒロミさんがかわいいということでもネット上ですごく話題になっていますね。

今回はゴジラが日本で生まれた背景を考えます。

ゴジラが世に登場したのは1954年11月3日。
東宝が制作した映画『ゴジラ』が公開された日です。
この映画は1954年3月に起きた「第五福竜丸事件」を基に作られたといわれています。

そこで、今回は第五福竜丸事件についてまとめてみました。

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事件概要

第二次大戦以降、アメリカはソ連との軍事競争に打ち勝つため、太平洋に浮かぶマーシャル諸島ビキニ環礁(当時はアメリカが統治していた)で、核実験を幾度となく行っていました。

そのビキニ環礁で日本の漁船が被害を受けます。

事件の始まりは1954年3月1日の早朝でした。

~以下は乗組員で現在も第五福竜丸事件を後世へ伝える活動を行っている大石又七さんの証言及び著書を参考にしています。~

【事件発生】

1954年3月1日午前3時42分
アメリカ軍による新型の水爆実験が行われました。
その破壊力は15メガトン。広島に落とされた原爆の約1,000倍といわれています。
その時代にアメリカが行っていた実験の模様がこちら。

圧倒的な破壊力に、ただただ言葉を失ってしまいます。

その爆心からおよそ160km離れた地点で操業していたマグロ漁船が第五福竜丸でした。
乗組員は23名。
乗組員の一人大石又七さん(当時二十歳)はTBSの番組で当時をこう振り返ります。

これから寝る準備をしようとしていたその時。
空全体がパーッと明るくなった。
その後音が来る。
その音は空中からではなく、海の底から響き渡る今まで聞いたことのないとても重い音だった。
その音にみんなびっくりして腰を抜かしていた。

すると、当時の無線長久保山愛吉氏が急いでこう言った。
「お前たち船か飛行機が見えたらすぐにおれに教えろ!」
当時の無線長はアメリカが近くで何か大事な実験をしていることに気づいていたのだろう。
そして、その実験を日本の船が目撃したことに気づいたら、日本の船なんかすぐさま沈められてしまう。
彼はそう思ったのだろう。そこから大慌てで逃げる準備を始めた。
(TBS 上田晋也のニッポンの過去問 H28.2.25放送分より要約)

乗組員は大急ぎでその場から離れようとします。
しかし、海にしかけていた縄を引き上げなければならない。
すべて引き上げるのになんと6時間もかかってしまったそうです。

【死の灰の恐怖】

爆発から1時間半ぐらいすると、白い米粒の粉が空から降ってきます。
白い粉の正体は放射能に汚染されたサンゴの死骸のかけらでした。
これが後に「死の灰」と呼ばれます。

死の灰をあびてからしばらくすると、乗組員の体に異変が現れます。
爆発から2日後、手足の一部が膨らみ始め、中に水がたまるようになりました。
放射線のやけどの症状です。

その後、乗組員は頭痛や吐き気を催し、髪の毛が大量に抜け始めました。
しかし、原因がはっきりとは分からない。
そんな状態が2週間続き、日本にやっと帰港したのは3月14日でした。

 

【日本に戻って】

帰国後、全員が緊急入院。
しかし医者は治療方法が分かりません。

アメリカに確認しようにも、アメリカからは軍事情報だからか何の情報も教えてくれませんでした。
当時の日本は1952年にサンフランシスコ条約でアメリカから主権を回復してからわずか2年後。日本政府はアメリカに強い態度で接することができませんでした。

アメリカは早期の決着を図りたいことから、
見舞金として200万ドル(当時の金額で7億2,000万円)を日本に支払いました。

あくまで賠償ではなく見舞金として政治決着が行われたのです。

 

【最悪の事態】

事件から半年後の1954年9月23日、遂に悲しい出来事が起こります。
久保山愛吉さん(39歳)が亡くなったのです。
アメリカの実験だと気づいたあの無線長です。
亡くなるまでの間、久保山さんは被ばくの後遺症に苦しみ続けたそうです。

日本社会は広島長崎の原爆投下から10年も経たぬ間に、再び核兵器の被ばくによる死者を出し、核兵器の恐ろしさを実感したのでした。

これが1954年に起こった第五福竜丸事件です。

ゴジラ誕生

そして、その恐怖から生まれたのが「ゴジラ」でした。
映画製作会社の東宝は、当時特撮ものの制作を企画をしているところ、社会問題になっているこの事件から発想を得て、
「度重なる核実験により海中洞窟にいた太古の巨大怪獣が安住の地を奪われ、地上に現れる」
というストーリーで特撮映画を製作しました。

これが初代『ゴジラ』です。

公開されるや否や映画は大ヒット。

日本だけでなくハリウッドでも人気を博しました。
その後、ゴジラはシリーズ化され、今回公開された『シン・ゴジラ』へと引き継がれることとなるのでした。

事件のその後

【乗組員】

退院した大石さんは被爆者として根拠のない差別を受けます。

思わぬ形で有名になってしまった大石さんは地元の静岡県には戻らずに、東京の人ごみの中に自らを隠しました。
周囲には第五福竜丸の乗組員であることは隠し、東京でひっそりとクリーニング店を営んでいたそうです。

しかし、当時の乗組員の多くががんで亡くなっていく姿を目にした大石さんは、沈黙を破り、この事件を後世へ伝える活動を始めます。

その活動は現在でも積極的に行われています。

 

【第五福竜丸】

事件後、第五福竜丸の船自体は当時の文部省が買い取り、除染及び調査が行われました。
その後、「はやぶさ丸」と名前を変え、東京水産大学の練習船として活躍。
練習船としての役目を終えた後は、当時ゴミ捨て場だった現在の夢の島にそのまま捨てられました。
その事実を知った一部の人々が船の保存運動をおこないます。
運動の結果、1976年に第五福竜丸の展示館が開館し、船はそこに展示されました。

現在でもそこは、都立第五福竜丸展示館として船や事件の関係資料が展示されています。

もちろん除染がしっかりと行われていますので、現在船から放射能が検出されることはありません。

感想

水爆の影響度合いはアメリカの想定をはるかに超えていたため、第五福竜丸がいた場所も危険地域とはされていなかったそうです。
つまり、当時のアメリカにとってもこの事件は「想定外の事態」であったんだと思います。

核エネルギーという魔法の力は、戦後の大国アメリカでも、現代の科学大国日本でも、
いつの時代も人間は把握しきれない人知をはるかに超えた存在なのかもしれません。

そういった意味では、原子力をどう管理するのかという問題は、人間の知力・知恵がもっとも試される課題なのだろうなと思います。

また、福島の原発事故ではニュースを見ていても、「健康に直ちに影響はない」という言葉が繰り返されるだけで、放射能の被ばくがどう危ないのか一般に伝わってきませんでした。
大石さんの著書を読むと、その恐ろしさが想像以上に苦しく残酷なものであるということが分かります。

放射能の怖さを後世に伝えるためにも第五福竜丸事件は風化させてはいけない事件の一つなのだと考えます。


参考図書

・『ビキニ事件の真実――いのちの岐路で』 大石又七
大石さん自身の著書。ビキニ湾への出航から、事件の日、そしてこの事件を語り継ぐことを決意されるまでを詳しく述べられている本です。被ばくの苦しさが伝わってくる一冊です。

・TBS 『上田晋也のニッポンの過去問』 H28.2.25放送分

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