都会の人はなぜ冷たいのか?
地方出身の方ならば誰もが一度は感じたことのある疑問ではないでしょうか。
約100年前、ジンメルというドイツの社会学者がこの疑問に挑みました。
彼は、「都市に住む人々は、抑制されているから冷たいのだ。」と、考えます。
彼のこの主張は、今の日本社会にも当てはまる気がして、大変興味深い内容でした。
そこでこの記事では、ジンメルの理論に触れながら都会に住む人々の人間関係について考えていきます。
ジンメルについて
まずは、ジンメルについて簡単に触れておきます。
彼は19世紀後期を代表する社会学者です。
ユダヤ系ドイツ人である彼は、ベルリン大学で一般の人向けに講演を行って生計を立てていました。
そんな彼が1903年に行ったのが「大都市と精神生活」という講演です。
その講演で、これからご紹介する都市における人間関係について彼は講義しました。
ムラ社会と比較すると都会の人は冷たい
「都会の人は冷たい」と言うときに、比較対象となるのが地方です。
地方では、みんながお互いに知り合いで、何でも話せる関係性です。
困ったときには助けてくれる情緒あふれる人間関係が構築されています。
いわゆる「ムラ社会」と呼ばれる環境ですね。
一方で、都会ではそんな光景は見受けられません。
他人と深く関わりあおうとせず、互いに無関心。むしろお互いに嫌悪しているようです。
なぜ都会では人間関係が希薄なのか?
ジンメルは、2つの理由で都会の人は抑制を求めらているからだと考えます。
貨幣経済による徹底した合理性
東京のように大勢の人間が一つの街に暮らすには、徹底した合理性が求められます。
人間を含めた全てのものが貨幣により管理され、「正確性」・「時間厳守」・「計算可能性」が強く求められる社会組織ができあがっています。
論理的であり知的な行動をとることが重要視され、お金に換算できない感情やその人の個性には関心が向けられません。
感情を出すことは社会的な損失であると思ってしまうのです。
そんな社会で暮らしていると、次第に自分は何者なのか分からなくなってきます。
また、周囲にいる人間の区別がつかなくなり、他人への関心も無くなってきます。
徹底した合理性の中で暮らすことで、内なる感情や他者への関心が抑制されていく。
これが都会の人が冷たい理由の一つ目です。
資本主義に裏付けされた都市の性質上の理由です。
多様性ゆえの距離感
都会の人が冷たい理由の二つ目は、周囲に同調することを避けるためです。
都会には多様な人々が存在します。
言語や宗教、食生活や育ってきた住環境が異なる人々。
そんなバラバラな彼らが集まって一つの「ムラ社会」を構築しようとしたらどうなるでしょうか。
それぞれ異なる価値観や考えを無理やり一つに統一化しなければなりません。
つまり、今まで培ってきた自分の一部を否定しなければならなくなるのです。
特に、マイノリティーの人々は苦労します。
周りに合わせることで、自分のアイデンティティを大きく損なう可能性があるからです。
しかも、都会に住む人々は、「自分はマイノリティーだ」と思っている人が多いのではないでしょうか?
バラバラな人々が一つのムラ社会を造ったら、過去の自分を大きく否定されることになる。
否定された人々は次第に周囲の人たちに巨大な憎悪を抱くようになる。
しまいには暴動が起き、社会は崩壊してしまう。
ジンメルはそう考えました。
逆に、ある程度の距離を保つことで自分の価値観を守ることができ、社会も平穏が維持されます。
周囲の人々を軽く嫌悪しているぐらいがむしろ社会の維持のためにはちょうどいいのです。
これが二つ目の理由です。
他者と距離を置き、軽い敵意を抱いているからこそ、都市の生活が成り立っているのです。
結論
都市に住む人々はなぜ冷たいのか?
- 徹底した合理性が求められる場所にいることで、感情を失い他者に無関心になってしまうから。
- 周囲に同調すると、自己のアイデンティティが損なわれてしまうから。
これら2つの理由により、都市に住む人々は冷たいのだとジンメルは考えました。
(難しいところは省略し、だいぶ意訳しています。)
距離があるから一緒にいることができる
現代社会を生きる私たちは、誰とでも仲良くなることが正義であると教わってきました。
「♪友達百人できるかな?」という呪文によって、まるで周囲の人たちと仲良くできない人間は悪いことのように思わされてきました。
しかし、都市で暮らしていくためにはその逆を求められます。
感情を抑制し、お互いが軽く嫌悪しあっているぐらいの距離感でないと、都市での生活は維持できないのです。
このギャップに悩まされている人はかなり多いのではないでしょうか。
距離があるからこそ異なる価値観の人と一緒にいることができる。
そう思うことで、少しは都会の息苦しさから逃れられる気がします。